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名前 | ||||||
愛称 | コブラ | |||||
ラテン文字 | Darko Pančev | |||||
マケドニア語 | Дарко Панчев | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
北マケドニア (旧 ユーゴスラビア) | |||||
生年月日 | 1965年9月7日(55歳) | |||||
出身地 | スコピエ | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
代表歴 | ||||||
1984-1991 | ユーゴスラビア | 27 | (17) | |||
1993-1995 | 北マケドニア | 6 | (1) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ダルコ・パンチェフ(Darko Pančev, 1965年9月7日 - )は、マケドニア共和国・スコピエ出身の元同国及びユーゴスラビア代表サッカー選手。ポジションはFW。
ユーゴスラビアが生んだ偉大なFWの一人。「コブラ」の愛称を持つ天性のゴールゲッター、利き脚、踵、膝、頭などあらゆる箇所を用いて泥臭くゴールを奪った。決して上手い選手では無かったがサポーターからは愛された。
特にレッドスター・ベオグラード時代は1990-91シーズンのUEFAチャンピオンズカップ、1991年のトヨタカップ(コロコロ戦ではチームの3点目のゴールを決めている[1]。)制覇など最良の時を過ごし、1991年度のバロンドール投票では第2位となった[2]。またユーゴスラビア代表では1990年のイタリアW杯でベスト8進出に貢献(対UAE戦で2得点)するなど前途は輝かしい物と思われた。
しかし1991年から始まったユーゴスラビア内戦は暗い影を落とした。1992年の欧州選手権スウェーデン大会はマケドニア独立後も辞退せずに留まっていたものの、同年5月22日にイビチャ・オシム監督の辞任に伴い代表を辞退(予選では10得点を記録し得点ランキング1位)、クラブでの活躍からレアル・マドリー、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドなどへの移籍の可能性もあったものの[3]1992-93シーズンからインテル・ミラノに移籍、しかしレギュラーの座を掴む事が出来ず、、レンタル移籍に出されるなど晩年は不遇を囲った。
現役引退後の2006年7月からFKヴァルダル・スコピエのスポーツ・ディレクターを務めている。
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